昭和六年九月二十三日 遭遇戦
敵は麗水から北上しつつある歩兵第八十聯隊である。両軍との間に小高い丘陵がある、どちらが早くこの丘を取るかが勝負の岐れ路。 尖兵の一班は軽機関銃をもって、走るに走る、午前中走り続けて先ずこの丘の上に機関銃一挺を据えつけた。機関銃挺よく一ヶ聯隊の前進を食い止めると言れた、後続部隊も急進中である、両軍激突して戦闘を終った。
南原の清水惣太郎さんという農家に宿泊する。
清水さんは大正の初めこの地に移住され、今では広い田んぼをもっておられ、子供さんも皆この地で生たのであると。
北鮮には竹薮はないが南鮮には竹もあり柿もあり、内地と何ら変りはない。朝鮮の米は大理石のように白くて、とてもおいしい。
南原は秀吉の第二次朝鮮征伐(慶長の役)の時この地で大激戦が行われ、朝鮮側では一万人の犠牲者を出した。
朝鮮ではこの役を王辰倭乱と言い、この役で大活躍をした李瞬臣将軍は鮮内至る処に顕忠祠があり、軍神として祀られている。
戦後この地南原に「万人義塚」が建設せられ民衆は敬けんな心で拝んでおり、滅私奉公の護国精神を養っている。
日本では太閣秀吉を、一百姓から天下をとった偉物としてあがめているが、朝鮮人に言わしむれば、日本に文字を伝えたのも、仏教文化を伝えたのも、外敵に対する築城を指導したのも総て朝鮮である。
古えの奈良の都の人口の半数は朝鮮人だったという。今日関東にも関西にも到る所に高麗町百済駅などという地名が残っている。実に日本の文化は懸って朝鮮人によって拓かれた。
然るに秀吉は朝鮮を攻めた恩を仇で返した野蛮人であるとののしっている。