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秋季演習

南鮮全羅北道、全州、任実面

 営庭で、練兵場で練りに練った戦技を実戦に生かす為に、毎年秋季演習が行われる。

 昭和六年九月二十一日、南鮮全羅北道、全州に到着一泊、敵となる部隊はその日のうちに出発して南進した。

 明けて、二十二日早朝、一番初めに斥侯を出す、その次に尖兵―尖兵中隊―前衛―本隊の縦隊で前進する。

 午後になって敵情がはっきりすると攻撃計劃が立てられ命令が下達された。

 聯隊長や聯隊付は馬の上で、命令受領者は歩きながら筆記する。

 命令が下達されると、砲兵は砂塵をあげて途中部隊を追越して前方に進出し砲列をしく、続いて本隊は展開して、夕方砲兵の制圧下に歩兵が前進し、敵陣に突込んで本日の基本戦闘を終った。

 この演習に私は本科初年兵として参加した、常日頃通信でさぼっている自分、それに日頃は空背嚢であるが、秋季演習になると、米・罐詰・着替被服・兵器手入具・飯合には飯が詰っており、背嚢の目方は三十キロからあり十里の行軍ですっかりへこたれてしまった。

 途中から足に血豆が出来て痛くてたまらなかった。任実面という小さな部落に泊った。

昭和六年九月二十三日 遭遇戦

 敵は麗水から北上しつつある歩兵第八十聯隊である。両軍との間に小高い丘陵がある、どちらが早くこの丘を取るかが勝負の岐れ路。 尖兵の一班は軽機関銃をもって、走るに走る、午前中走り続けて先ずこの丘の上に機関銃一挺を据えつけた。機関銃挺よく一ヶ聯隊の前進を食い止めると言れた、後続部隊も急進中である、両軍激突して戦闘を終った。

 南原の清水惣太郎さんという農家に宿泊する。

 清水さんは大正の初めこの地に移住され、今では広い田んぼをもっておられ、子供さんも皆この地で生たのであると。

 北鮮には竹薮はないが南鮮には竹もあり柿もあり、内地と何ら変りはない。朝鮮の米は大理石のように白くて、とてもおいしい。

 南原は秀吉の第二次朝鮮征伐(慶長の役)の時この地で大激戦が行われ、朝鮮側では一万人の犠牲者を出した。

 朝鮮ではこの役を王辰倭乱と言い、この役で大活躍をした李瞬臣将軍は鮮内至る処に顕忠祠があり、軍神として祀られている。

 戦後この地南原に「万人義塚」が建設せられ民衆は敬けんな心で拝んでおり、滅私奉公の護国精神を養っている。

          

 日本では太閣秀吉を、一百姓から天下をとった偉物としてあがめているが、朝鮮人に言わしむれば、日本に文字を伝えたのも、仏教文化を伝えたのも、外敵に対する築城を指導したのも総て朝鮮である。

 古えの奈良の都の人口の半数は朝鮮人だったという。今日関東にも関西にも到る所に高麗町百済駅などという地名が残っている。実に日本の文化は懸って朝鮮人によって拓かれた。

 然るに秀吉は朝鮮を攻めた恩を仇で返した野蛮人であるとののしっている。

昭和六年九月二十四日 飛鴻峠

 大きな大きな峠、飛鴻峠にさしかった、登れども登れども山又山、正午やつと頂上に達した。山は大変な岩山である、この岩山には昔虎がすんでいたと聞く。加藤清正の虎退治の武勇伝は蓋しこのあたりのものではあるまいか。

 峠を下ったところに川があって舟で渡った。兵隊は皆水筒を川につけて水を飲んだ。その夜は古里院の河岸で露営、夜間演習であった。

吾が青春の兵なりし日よ古里院の
露営に聞きしアリラン哀歌
秋の夜の更けて冷たし寂として
虫の音ひとつ聞くこともなし

昭和六年九月二十七日 淳昌面

淳昌宿営
淳昌面
淳昌面洗濯の風景

淳昌宿営

 淳昌面という部落で一日休養。

 小学校では全部日本語を教えているので、兵隊には朝鮮語は教えてない。

 「チヤンムリ トツシヨ」と言ってオモニに水筒を渡した、水筒には醤油が入れられて戻された。

屋根ひくく南瓜の
つるの這いあがり
黄色きうまが
軒にさがるも

おしなべていづこの家にも
秋陽照る屋根に
ま赤き唐辛子燃ゆ

 「水だ」 かめの水を指して見せると

 「ムリ、ムリ(水)ガツソヨ チャラアミダ」(わかりました)

 お父さんお母さんが好意をもって兵隊のことを聞きたがるのだが言葉が通じない。

 張貞玉という小学六年のキチベイ(娘)さんがいて通釈をしてくれた。

 ご飯を炊いてくれたり、洗たくをして下さったり、涙ぐましい献身ぶりであった。

 張貞玉さんは帰営してから ずうっと手紙をくれていたが。何時しか絶えてしまった。

なでしこの野辺に咲けりとふみくれし
        かの日の少女如何になりしや

 綺麗なお嬢さんがおられたので家族一同とともに記念写真を撮ろうということになったが、肝心の嫁さんはとうとう仲にはいってくれなかった。聞くところによると既婚の女性は絶対に他の男性と親しそうな行動があってはならぬという風習だそうな。

 昨日行軍の途中、老婆がむろ蓋に栗を入れて道路端にちょこりんと蹲っている。

 「その栗兵隊さんにくれるのか」

 「売るんだ」人通りもあまりないのに、

 「売れなかったらどうする」

 「私が食べる」

昭和六年九月二十八日 単陽、二十九日 光州に一泊。

統監部

統監部

 つい三ヶ月前、満州万宝山で朝鮮人農民が支那軍に虐殺されており、満州事変が起きて今日で十日目、朝鮮人の兵隊さんに寄せる期待はまことに大きかった。

 朝鮮の青少年は兵隊になりたくて仕方ないが、まだ兵隊に服する道はなかった。

 ただし家柄がはっきりしており、思想堅固なものは幼年学校、士官学校に入学を許された。在鮮部隊には李少佐、劉大尉、金大尉など鮮系の将校さんが沢山おられた。

 鮮系の将校さんは演習で労れているにも拘らず部落民を集め「これが軽機関銃と言うもので一分間に弾が六〇〇発出る」と得意になって軍事熱をあおっておられた。

 民衆は「あれがヨボ衆(鮮系)の兵隊さん」と神様を拝むように目を皿にして聞いていた。

李少佐
李応俊将軍は朝鮮の幼年学校から日本の士官学校に進まれた方で、韓国独立後は軍の重鎮として、大韓民国参謀総長を務めておられた。今は御歳で退いておられるが、昭和五十四年現在なお御健在と聞く。劉升烈大尉については最近の消息はわからない。

連続終夜演習

昼夜連続演習

十分間休憩

 松汀里から井邑を経て裡里まで三日間は連続終夜演習であった。

 二日も寝ないで行軍すると歩きながら眠る。前が停るとガチ、ガチ、ガチっと将棋倒しに前の人の飯盒をかじって怒られる。

         

 十分間休憩と言われると、道踏わきに処かまわず、ひっくり返って寝た。もっとも機関銃や砲兵、輜重兵はその間に馬に水をやらねばならず、休憩というものはなかった。

 夜は絶対に前の人から離れてはならぬと言われても、何時の間にか前の兵隊がいなくなって、あわてて、そこらの部隊の後についてゆく、夜が明けて見ると、他な部隊の後について行軍していた笑話もある。

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